弁護士ラベンダー読書日記

札幌弁護士会所属・弁護士田端綾子(ラベンダー法律事務所)の読書日記

中島梓「転移」

転移 (朝日文庫)
亡くなるまでの日記、という結末がわかっていて、物理的にページ数が薄くなるのがつらい本。
原発部位が膵癌で転移していてというと、かなりhopelessだと思いつつ読むと、意外と希望を持って暮らしていて、痛みも浮腫も、なんでこんな風になっちゃうんだろうって感じで書かれていて、なんでって癌ででしょ…と内心突っ込みつつ、最後は急激に悪化していくのが痛々しい。
この経過は医学的にはどういうことだったんだろうと知りたくて、書名でググると1番上のこのブログ「日々平安録」に知りたいことが全部書いてあった。
それによると、抗癌剤は効いていないのに気休めで使われていたようで、そのためにQOLがかなり犠牲になったということのようです。じゃあ自分だったらそんな抗癌剤は使わないと思いつつこのブログ記事を読み進むと、こういうくだりがあり、

 肝臓への転移がみつかったとき「ほっとけば余命1年ナシ」と宣言されている。実際には転移発見の13ヶ月後に亡くなっている。さまざまな治療介入は氏の余命を数ヶ月延ばしたのかもしれない。しかし、治療をしなかった場合、もう少し氏のQOLは向上し、もう少し多くの執筆ともう少し多くのライヴ活動ができたかもしれない。それは誰にもわからないことである。だが、抗癌剤などは使わずにQOL第一でいった場合、転移病変が増大し、腹水が出現しということになった時に、抗癌剤を使っていればこうはならなかったのではないかという後悔が生じることになるのもまた避けられないかもしれない。現在可能な最善の治療をしているということが、なにがおきてもそれをやむをえないこととして受けいれるために必要な儀式なのかもしれない。

 転移を宣言された時点で、「でもまあ、本当に「このさきどうなっていくのか」ということは全然誰にもわからないわけで、あるいはおそろしく進行が早くて1年たたずに私はこの世にはもういないかもしれないし、それとも案外に薬がきいて、けろりとして60歳の誕生日を迎えているかもしれないし―まあ、本当にわからないものはわからないんだし、だったらまあ、「人事を尽して天命を待つ」ってことか」と書いている。抗癌剤使用は「人事を尽す」ことなのである。結果として、恐ろしく進行が早かったケースにほぼ相当する経過になったわけだけれども、医療者は中島氏のケースを、ごく平均的な病状の進行と思うだろう。転移が発見されたのであれば、氏がけろりとして60歳の誕生日をむかえる可能性がある思う医療者もあまりいないだろうと思う。抗癌剤は数ヶ月の延命を氏にもたらしたかもしれないが、それ以上に闘病する氏に「希望を処方」していたのだろうと思う。

おまじない的な抗癌剤使用も「人事を尽す」ことであって、結果を受け入れる儀式として必要なのだろうか…実際にその局面では何が正解かわからない。