弁護士ラベンダー読書日記

札幌弁護士会所属・弁護士田端綾子(ラベンダー法律事務所)の読書日記

南直哉、玄侑宗久「同時代禅僧対談<問い>の問答」

ここをだいぶほっといてるなと自覚はあったけど1ヶ月以上も更新しないでいたとは! いつもは日付はウソですが、心おぼえとして実際の更新日で更新しておきましょう。

ちょっと前から、読めない期、読んでもアップできない期、読める期の波があり、このごろさらにその起伏が激しくなってきて、読める期の末期に読んだものがメモのままいくつかたまっていつつ、しばらくの読めない期を過ごして、いまこうやって1つだけでもアップできるということは回復傾向にあるのだと思いたい。

南師を読むなら対談と思って本書はマークしていたものの、どうせなら震災後の語りを読みたかったなあと手が伸びずにいたのに、書店で表紙(たまらん)にノックアウトされてジャケ買い

対談中で何度も言われているけど、永平寺原理主義の極北の南師が恐山というのはインパクトあるんだなあ。

「べてる」ものと平行しながら読んだので、病んだ人や異常な人はただ<そういうあり方をしている人>である、ある何かが起こって、それに対して、それ相応の反応をしているだけ、その点では正常と言われる人たちとあまり変わらない。生きる条件というか身体的条件が変わってしまったときに、ある存在様式でそこにいる人たち、というとらえ方がシンクロニティ。

生きることの力はアンバランスさ。根本的にアンバランスだから動いていくのでありそれが生きること。

<虹は見える>見えている人には実在しているのと同じですから、そうですかと言って寄り添っていかないとしょうがない。だけどそれは虹の実在とは違う。

「言い得ないもの」に向かって眼差しを注ぐ人間の著作は、変なものになる。「言葉は関係性を意味しても、実在そのものは言葉の彼方にあるんだ」「指月のたとえ」指が言葉で、表現すべきものが月であるという場合、月はある。月か月のようなものか。鳥飛んで鳥の如し。魚行いて魚に似たり。言語は必ず存在から外れる。行為(飛ぶ、行く)あるいは関係性(鳥と空、魚と水)が存在を仮説する。→ここすごい保坂。

純粋仏教と拝み屋との間の折り合い? 原理と現実の狭間に見えるリアリティ。原理は現実のなかでは必ず無意味になっていく。原理は方向性として意味があるのであって、標識としては意味があっても、具体的に走ったり道を刻んだりしていくのは原理そのものではない。いくら標識があっても自分が走らない限りは向こうにつかない。

宮澤賢治の仏教理解について。慈悲は行動ではなく、「智慧の開けた心の状態におのずと具わってくる特性」。自らを菩薩になぞらえたゆえの無理な思いこみ。慈悲はめざすものではない。慈悲は仏のもの。仏教はヒューマニズムではない。→このあたり宮澤賢治へはきびしいことを言われてるけれど腑に落ちた!

相手が異常な状態にあることを異常と思わないでそういうあり方をしている人とまず認める。

靴下ホニョホニョの老師。弟子を育てる靴下の先の余裕。

同時代禅僧対談 “問い”の問答