弁護士ラベンダー読書日記

札幌弁護士会所属・弁護士田端綾子(ラベンダー法律事務所)の読書日記

秋津じゅん「再び話せなくなるまえに」

・「あるべき自己」が、「私らしい私」をねじ伏せて行動をコントロールする日々を当たり前だと思いきれなくなったときが来た。私の描いたものは「幻」だったのか。それは、一片の波に崩され、跡かたもなく消え去り、無に帰してしまった。

←リハビリのしかたを読んでも、「あるべき自己」の設定と遂行の力がほんとに強い人なのだなとわかります。

・いったい障害は受容できるものなのか。受容しなければならないものなのか。事実を否定したいとか、回復を期待するとか、運命に憤ったり悲しんだりするのは、「道」の第一歩にすぎないのか。どの人も最終的に受容に至るまで歩き続ける「道」があるのだろうか。どうも私にはそうとは思えないのであった。

・心から「そんな悲しみがあったのですね」と思ってくれないならば、やっぱりその人とは本心から付き合っていられないではないか。

・私は、受容という言葉を、悲嘆にくれる人に授けられた言葉とは思わない。大きな悲しみを現実に受け止められず、生涯悲しんで、やっぱり元の自分に戻りたいと思っていたって、それでいいじゃないか。悲しみは、存分に悲しめばいい。どんなに悲しんでいても、人は笑うし、わずかのことが人を慰める。でも、「人は笑うし、慰められるじゃないか」と、他の誰が言うことができようか。

←ロスの受容モデルへの疑義の部分。受容モデルはツールにすぎない? 個々の葛藤を見ようとしない? 他者の異常事態に日常接する専門職のメンタルを守る機能は、たしかにあるかもしれない。こういうモデルがあると知って自らはまりにいける人はよいのだろうけど、知的に強靱すぎると抗ってしまうのかもしれない。

・まだ自分の考えというものもないと見える若い医療者が、同情も共感もなく、一本気に自分の役目だけを果たそうとするのは、なんとなく鬱陶しかった。

・「私はあなたではないのだから気持ちはわからない。けれど、私はあなたにしてあげられることがあるから、そばにいる」と言ってくれる医療者が、慎み深く素朴な興味と関心を持ってそばにいてくれることがありがたかった。

・冷静で客観的な分析というのは、追求すると、どんなに情緒的な文章よりも愛情があるものなのだ。 

再び話せなくなるまえに