弁護士ラベンダー読書日記

札幌弁護士会所属・弁護士田端綾子(ラベンダー法律事務所)の読書日記

鎌田東二×南直哉「死と生 恐山至高対談」

・死者はリアル。思い通りになるものがヴァーチャルで思い通りにならないものがリアル

・死体と遺体が失われたときに死者を立ち上げるやり方の一つが葬儀
まあこのへんはいつもの発言…

 

・私(A)が私(A)であるということは、そのように自分の記憶が連続していること、他人が「彼はAである」と認知し続けること、この一致でしか保証されません。そうすると、この世界には確かなことは何もないことになる。

ここ、神林の「我語りて世界あり」感。


・人間の根底には死に対する強烈な欲望がある。自意識なんてものは重荷。だから人間は自意識を解除するような行動に取り付かれやすい。異界に近づきたがるのは、自分が自分でいることや日常を支えること自体を非常につらいと感じていて、それを解除したいという気持ちが根源にある。

・人間が誰であるかは共同体との関係で決まる。共同体が崩れてくると自分が誰であるかを決めるものがなくなり、むき出しの実存が出てくる。むき出しの実存が一つのまとまりとして自己を捉えていくためには何らかの理念が必要。超越的な理念との関係で自己を再編成しなければならない。

・体験そのものは意味がない。体験をどのコンテクストに乗せるかが決定的な問題


正法眼蔵は固定的な真理を語ろうとしているのではなく、ある言語の運動を見せて真理らしきものの在り処を示そうとしている。言葉の限界を言葉で裏切りながら運動させ、その先を見据えようとしている。その先に何かがあるというよりも運動そのものの姿を見せていく。

ここ、保坂! いま、保坂の「読書実録」をじわじわ読んでるのだけど、定着した言語ではなく言語の運動そのものを見せようとしているの意味すごくわかる


・そうではないかもしれないと思うから博打ができる。必ず勝つと思っていたら博打にはならない。必ず勝つと思ったら理解するだけ。

・仏教は道しるべにはなるがゴールにはならない。ゴールは自分が立ち止まったところで、そこまで歩いていく道標としては使えるが、人が言ったことをゴールだなんて思ってはダメ。自分で歩いて立ち止まったところしかゴールとは言えない。

・死の受容。わけのわからないものを受容することは、他者に向かって自分を開いていくこと。それをつなげる実践は、誰かとの関係の中でその他者を優先していくこと。支配被支配の関係にならないよう、コントロールの欲求を全部はずし、共に何かをやろうというだけの関係を作りだしていく。常に自分は閉じないように開くことを繰り返していく。近代型の自由な個人、自己責任と自己決定を解体。近代型の自意識を前提とした個人やそのありようを他者に向かってわけのわからないものに向かって開いていく訓練。相手のわからなさを許して、そのわからなさを引き込んでくる。決着をつけない。


・ロジックを超えていく、詩の部分。わからないことこそが決定的な問題で、わからないまま受容する方法の一つが、宗教や芸術。詩という表現の方法や、瞑想や座禅などの宗教的実践。

ここまで、鎌田さんの発言は流し読みだったんだけど、この最終章の、ポエジーをめぐるやりとり! 余りものの方に土台がある、ロジックで言及できない、ロジックを離れてそれ自体のリアリティ、論理は含みながらもそれを超えたもの。この対談のいちばんの意義がここにあると思いました。

死と生 恐山至高対談

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