弁護士ラベンダー読書日記

札幌弁護士会所属・弁護士田端綾子(ラベンダー法律事務所)の読書日記

南直哉、為末大「禅とハードル」

南師(呼び方!)は、自分のようなものの言葉に惹かれる人はあぶないというけどやっぱりぐっとくるのよね。ほんとぐっとくるな~南師はすごいなあ好きだ!と思いつつ、もし自分の子どもが南師だったら途中経過は母としてはつらいだろうなあなど。

例えば神を信じると言ったときにですね、ものすごく真面目に考える人は、「神を信じる」ということをどう考えるか、どういう状態で信じているのかってことを考えると思うんです。例えば、もし一生懸命お祈りしていれば神様は聞いてくれるっていうのが「信じる」ということだとしたら、これは基本的には取引なんです。そうでしょう? つまり自分の力で神様を動かそうってわけですから。「これだけやったんだから、お願いしますね神様」っていうのは取引じゃないですか。取引だからそれは信じるということとは違う。 信じるというのは、何が起こるかわからない、どんなものだかわからない相手をそれでも「信じる」ということです。自分にはまったくわからない神のような絶対者、もしくは「死」のようなものかもしれない。とにかく、わけがわからない予測のつかないものを信じるということです。そんな、わけのわからないものを信じるというのは普通は難しいことです。しかしわけのわかるものを信じるのは取引にすぎない。そうすると「わけのわからないものを信じる」ってことを実行しない限りはそもそも「信じる」ことにならないわけですよ。わけのわかるものだったら信じなくてもわかればいいんですから。信じることを発動させるためには、わけのわからないものに対して身を投げなきゃいけないんです。信じる相手はわからない存在だから、相手に向かって何かを問うわけにもいかないわけだし、そうするとできることは、自分がどういう状態であることを「信じている」状態であると定義するか、それを考えるしかないんです。

このくだり、テッド・チャン「地獄とは神の不在なり」そのものです。

「認める」というのは「許す」と似ているんです。人が人を許すことの一番の問題は、許す自分を許せるかということなんです。誰かにひどい目に遭わされたとして、相手をそれでも許すというのには二重の構造があって、ひどいことをした相手を許す自分を許すということが重要なんです。同じように、誰かに対して、報われなかった努力を認めますよと伝えたときに大切なのは、「無駄になった努力」というものを自分自身がどう総括していて、どう許しているかを伝えることだと思います。それが自分の中で完結して初めて、相手に向かって訴えることができると思うんですよ。

あと、この「二重構造」はまさしくそうですごく言い当てていると思いました。

禅とハードル

YM「KSN」

読み切ってないし悪口なのでイニシャル化。

アタマ休めのSFを求めてなんとなく買ったけど描写の陳腐さに耐えきれず18%くらいまで読んで断念。ひどかった。

ビジネスの場面での登場人物のセリフがありえない感じないのとか、60代半ばのひとを「かくしゃくとして」とか表現しているのとか、物を知らない人が背伸びして書いてる感じがしてイライラして私はこういうのは読めない。どうしてこういうのがまあまあ読まれてるのか謎だけど実際昔からこういうものなのだった。しばらく知らない作家は読みたくない。

伊坂幸太郎「AX」

最初は読んでも読んでも退屈な内容でどうしたかと思ったけど、最後はまあ伊坂だねってなりました。わかりやすいおもしろさを打ち出すのを控えているのかな、それとも恐妻エピソードが私にとって別におもしろく思えないだけなのか。

AX アックス (角川書店単行本)

ジェーン・スー「今夜もカネで解決だ」

ほんとにやわらかいものしか読みたくない精神状態で(今回の更新群に文句が多いのもこのあたりがなんかあるのかもだけど)。こんなジプシー状態にならないで決まったところに定期的に通えばいいのにとしか思えなくて、こういう自虐風味の、わかっちゃいるけどやめられないワタシで落とすタイプの女性エッセイってあるけどぴんとこないわ。

 

今夜もカネで解決だ

野島梨恵「私の愛すべき依頼者たち」

内容的には普通にフムンというか中村先生の前説の言い当てっぷりがさすがと思いつつ、めんどくさいとか自分の仕事の範囲はここまでとか、依頼者層が読むとどうかと思いそうな微妙なことをすごく正直に書くのね…。私の愛すべき依頼者たち~10のエピソード