弁護士ラベンダー読書日記

札幌弁護士会所属・弁護士田端綾子(ラベンダー法律事務所)の読書日記

秋津じゅん「再び話せなくなるまえに」

・「あるべき自己」が、「私らしい私」をねじ伏せて行動をコントロールする日々を当たり前だと思いきれなくなったときが来た。私の描いたものは「幻」だったのか。それは、一片の波に崩され、跡かたもなく消え去り、無に帰してしまった。

←リハビリのしかたを読んでも、「あるべき自己」の設定と遂行の力がほんとに強い人なのだなとわかります。

・いったい障害は受容できるものなのか。受容しなければならないものなのか。事実を否定したいとか、回復を期待するとか、運命に憤ったり悲しんだりするのは、「道」の第一歩にすぎないのか。どの人も最終的に受容に至るまで歩き続ける「道」があるのだろうか。どうも私にはそうとは思えないのであった。

・心から「そんな悲しみがあったのですね」と思ってくれないならば、やっぱりその人とは本心から付き合っていられないではないか。

・私は、受容という言葉を、悲嘆にくれる人に授けられた言葉とは思わない。大きな悲しみを現実に受け止められず、生涯悲しんで、やっぱり元の自分に戻りたいと思っていたって、それでいいじゃないか。悲しみは、存分に悲しめばいい。どんなに悲しんでいても、人は笑うし、わずかのことが人を慰める。でも、「人は笑うし、慰められるじゃないか」と、他の誰が言うことができようか。

←ロスの受容モデルへの疑義の部分。受容モデルはツールにすぎない? 個々の葛藤を見ようとしない? 他者の異常事態に日常接する専門職のメンタルを守る機能は、たしかにあるかもしれない。こういうモデルがあると知って自らはまりにいける人はよいのだろうけど、知的に強靱すぎると抗ってしまうのかもしれない。

・まだ自分の考えというものもないと見える若い医療者が、同情も共感もなく、一本気に自分の役目だけを果たそうとするのは、なんとなく鬱陶しかった。

・「私はあなたではないのだから気持ちはわからない。けれど、私はあなたにしてあげられることがあるから、そばにいる」と言ってくれる医療者が、慎み深く素朴な興味と関心を持ってそばにいてくれることがありがたかった。

・冷静で客観的な分析というのは、追求すると、どんなに情緒的な文章よりも愛情があるものなのだ。 

再び話せなくなるまえに

判例時報2429号 債務不履行で弁護士費用

大阪地裁平成31年3月26日判決

旅行会社の募集型企画旅行契約が交通規制で目的を達せず途中帰国となり、現地の通行止めの調査を怠ったとして求めた代金相当額、慰謝料、弁護士費用の支払いが認められた裁判例債務不履行での弁護士費用は、安全配慮義務違反などでは認められるものの一般的ではなく、もっと広げてよいのではと思ってたまにチャレンジしますが結果は出ないので、気になっている論点。

テッド・チャン「息吹」

だいぶ前に読んでたのに書くの忘れてた。 冒頭の「商人と錬金術師の門」が一番かなあ。以下の抜き書きも、そこからばかり。

・悔悛と償いが過去を消し去る。未来もまた同じ

・行動の結果を引き受けて生きなければならない

・偶然も故意も、一枚のつづれ織りの裏と表

・過去と未来は同じもので、どちらも変えられず、もっとよく知ることができるのみ

・こうでしかありえなかったのだ

・人生という物語の聞き手であると同時に登場人物でもあり、生きることによって教訓を学ぶ

・なにをもってしても過去を消すことはかないません。そこには悔悛があり、償いがあり、赦しがあります。ただそれだけです。けれども、それだけでじゅうぶんなのです。

www.hayakawabooks.com

息吹

上岡陽江、大嶋栄子「その後の不自由」大嶋栄子「嵐のあとを生きるひとたち」「生き延びるためのアディクション」

・必要なのは不死身の身体ではなく、自分を支える技術と、弱さを媒介とした応援団とのつながり。
・「性格的な弱さから嗜癖問題に逃避したどうしようもない自分」という物語を、「自分には逆境を跳ね返す力があり、嗜癖問題からの回復という責任を果たそうとしている尊厳ある個人」であるという物語に変貌させていく。

その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち (シリーズ ケアをひらく)

“嵐”のあとを生きる人たち―「それいゆ」の15年が映し出すもの

生き延びるためのアディクション―嵐の後を生きる「彼女たち」へのソーシャルワーク

宮野真生子、磯野真穂「急に具合が悪くなる」

つねに不確定に時間が流れているなかで、誰かと出会ってしまうことの意味、そのおそろしさ、もちろん、そこから逃げることも出来る。なぜ、逃げないのか、そのなかで何を得てしまうのか

 

分岐ルートのいずれかを選ぶとは、一本の道を選ぶことではなく、新しく無数に開かれた可能性の全体に入ってゆくことなのです。可能性とは、ルートが分岐しつつ、その行く先がわかった一本道などではなく、つねに、動的に変化していく全体でしかないのではないでしょうか。 

などと、折ったりセン引いたりしてマークできたのははじめのうちだけで、終盤は、往復書簡ならではの行間…書かれざる部分も含めた「全体」に圧倒され続け…すごいものに触れてしまいました。

「あること」も「ないこと」もありえた「にもかかわらず」

にもかかわらず。自由な自分になってしまった記憶とともに。

急に具合が悪くなる